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マイク野上ギャラリートーク

チグニッタで現在開催中、「野上眞宏写真展 アメリカーナの探求」2月11日に行われたギャラリートークの模様をお伝えします。マイク野上さんを囲んで写真作品について、また60年代70年代の東京カルチャーシーンについて話を伺いました。マイク野上さんの写真家としての半生、写真撮影の秘密や魅力を余すところなく語られたロングインタビューです。

インスタライブの動画はこちら

https://www.instagram.com/p/Cog153hr850/

 

 

野上眞宏

1947年、東京生まれ。1970年、立教大学社会学部卒業。鋤田正義事務所でアシスタントをつとめた後、1972年からフリーランスの写真家。細野晴臣との交流から始まった「はっぴいえんど」のドキュメントなど、60年代末から70年代初頭の東京のカルチャーシーンを撮影。1974年に渡米、ロサンジェルスに移住。東海岸に移り、ワシントンD.C.、ヴァージニア州アーリントンに転居の後、1978年末以降はニューヨークを拠点に活動。2015年に帰国。これまでに数多くの個展、写真集で作品を発表している。

https://mikenogami.com/

 

 

ギャラリートークの模様

 

野上さん、よろしくお願いします。

 

マイク野上:お手柔らかにおねがいします。笑

 

マイクさんは1947年生まれ。

 

マイク野上:75歳になります。

 

野上さんといえば、やはり「はっぴいえんど」や「HOSONO HOUSE」の写真で有名ですし、そのお話ももちろんお伺いししたいのですが、まずは野上さんの若い頃、中高生、青年時代の頃についてお話しいただけますか?

 

マイク野上:中学は文京区の区立五中でした。映画が好きで、毎週有楽町まで都電で行ってました。結局、中学三年間で300本ぐらい観ましたね。

 

すごい中学生ですね。

 

マイク野上:お小遣い全部映画に使ってたっていう感じです。ハリウッド映画が好きしたね。ロマンチックコメディとか、ウエスタンとか。キム·ノヴァクが好きでしたね。それがきっと頭の中の画像に染み込んじゃって、写真撮るときも自然にフレーミングできちゃうようになったのかもしれませんね。

 

高校は立教高校です。その前の年から、埼玉県の志木に移ったんですよね池袋から。なので毎日電車で埼玉まで通って、同学年に(写真家の)杉本博司とか細野晴臣とか西岸良平がいましたね。

 

高校三年のとき、アメリカ行きの交換学生プログラムがあって、それに行きたいと親に言ったら「そんなお金があるわけないじゃない」とか言いながら行かせてくれたんです。金額的には当時で45万円。今にすると450万円ぐらい。

 

えーっ!

 

マイク野上:高校生の夏休み旅行にそんな金出す親がどこにいるんだみたいな感じなんですけど。で、それ行って、写真もいっぱい撮って、自信もついて、結局将来につながったというか。あと、ニューヨークをうろうろしているときに、ニコ(ヴェルベット·アンダーグラウンドのヴォーカル)と偶然出くわして写真に撮ったりしましたね。

 

 

野上さんが撮影したニコ

Exhibition “SUMMER OF 1965”

で、立教(大学)に行ったら細野晴臣と同級生になっちゃって、僕も音楽好きだったから、細野氏は音楽でもなんでも超エキスパートだから、すぐ友達になっちゃって、いつも一緒にいたんですよ。彼はずっとバンドをやっていて僕はついて回ってたんですけど写真は撮らなかったんです。大学三年ぐらいに、やっとそうだって気がついて、10年後には彼もサラリーマンにでもなってあの頃はよかったなーなんて話をするんじゃないかと思って写真を撮り始めたんです。

 

その頃は誰も細野氏がそんな日本を代表するような音楽家になると思ってなかったし、本人自身も「ピアノ調律師になれたらいいな」みたいなこと言ってましたし。笑。そんな感じで撮った写真なのに、いま時代の記録になってしまいましたね。

 

日本のポップスの原点みたいな写真ばかりですもんね。

 

 

マイク野上:普通、有名人の若いころの写真って、ほら、お母さんが撮ったような写真しか残ってないんじゃないすか。それが彼の場合はね、運よく僕に出会ったから(笑)かっこいい写真が残ったわけですね。

 

そこからマイクさんは1974年にアメリカへ渡り、2015年まで暮らされていたとのことですが、アメリカ行きはどういうきっかけだったのですか?

 

 

マイク野上:大学出て写真家やり始めたんですけど、最初、鋤田正義(デヴィド·ボウイなどの写真で有名な写真家)のアシスタントをしていて、ジャケット写真も結構いいのが撮れて、いい調子でいってるなと思ってたんですけど、その頃、ニューヨークに三年ほど行って帰ってくると、ギャラのランクが一段上がるって話があって。笑。それをやってみようかと。笑。それに自分自身の修行が足らないなと、そんなコンプレックスもあったので、少し自分を鍛えようという気分でしたね。そんな感じでアメリカに行ったら、なんか水が合ったというか「いいじゃん」って感じでずーっといるようになって、気づいたら五年ぐらい経ってて、そんな感じです。笑。

 

 

どんな感じで生活されてたんですか。最初はLAだったんですね。

 

 

マイク野上:そうですね、お金がなくなったらちょっとバイトして、という。好きなことやってました。で、その時に問題になったのはビザでした。仕事するには永住権がないとダメだってあちこちで言われて、それでジャケット着て弁護士のところに行ったら「カメラマンはアメリカ人が大勢いるからね、日本人のお前がそれで永住権をとるのはちょっと無理だろう」とか言われて。そしたら、ワシントンD.C.にいる大学時代の友達が「俺が取ってやるから心配するな、そのかわり、俺の仕事手伝え」っていわれて、それで8ヶ月ぐらいで永住権が取れちゃったんです。

 

「アメリカーナの探求」より

この「アメリカーナの探求」シリーズは、78年に撮られたんですよね。これを撮り始めるきっかけみたいなのがあったのですか。

 

マイク野上:77年の年末に日本にいた時に一緒に仕事をしていた「WORKSHOP MU!!」の真鍋くんがワシントンD.C.に遊びにきて、彼の奥さんが「ところで最近、野上くんどんな写真撮ってるの?」って言われて。その時見せる作品が全然なかった。写真撮ってなかったから。そう言われてドキッとして「俺、アメリカに何しきたのかな」と。それで焦って、翌年の一月から一年かけて撮り始めたんです。

その頃は、友人のサンドイッチ屋でサンドイッチを作る仕事をしながら。日常生活って、洗濯とか一人で生きているとやることがいっぱいあるじゃないですか。それでそういうものはぜんぶウィークデイにやることにして、週末の2日間は写真に専念することにしたんです。

 

 

どんな感じで土日は動いて写真撮られたんですか。

 

 

マイク野上:今日はこっちの方へ行ってみようかなっていう感じで車で出かけていって、そこでなんか適当に見つけてって感じで。やっぱり僕は50s、60sが好きだったんで、78年の時点においてちょっと古っぽいノスタルジーな風景を探して撮ったんです。

当時、ニューヨークへも行ったことはあったんですけど、ワシントンD.C.は首都だけど、郊外へ行けば田舎なので、何十年も前のものがそのまま残ってるような感じだったんです。最初はどうしてこんな田舎に来ちゃったんだろうって思ってたけど、ここにいるのも何か意味があるなと思って撮り始めたんです。

 

 

 

どんなカメラで撮っておられたんですか、

 

 

マイク野上:35ミリです。ライカとニコンです。その頃、ニューヨークのMoMAで、ウィリアム·エグルストンという写真家の作品を見ていたら、彼もライカの35ミリでいっぱい撮ってるんですよ。35ミリなら僕の手持ちの機材でできるじゃんって思いましたね。

 

「アメリカーナの探求」の撮影に使われたライカとニコン

いまエグルストンのお名前が出ましたけど、彼やマイヤーウィッツなど、所謂「ニューカラー」と呼ばれる写真シーンが出てくるのは80年代以降ですよね。それを思うとマイクさんの一連のカラー写真は相当早かったことになりますね。

 

 

マイク野上:僕の育った時代は戦後で、白黒よりカラーが偉かったんですよね。笑。テレビもそうですし。だからそのうち誰もがスナップショットもみんなカラーで撮るようになるんじゃないかなと。だから僕もカラーで撮ってやるぞと思ってた。そしたらエグルストンもカラーで撮ってて、じゃあ僕も頑張ろうと。

で、78年の暮れに日本に一時帰国したときに、ある有名カメラ雑誌にこの写真を持って行ったんです。そしたら全然わかってもらえなくて追い返されて。

「もっと子供の笑顔の写真とか撮った方がいいんじゃない」とか言われて。笑

 

そういえば「アメリカーナの探求」シリーズにはほとんど人物が写ってっていませんね。人がいないことで逆に静寂感がありますよね、人が入らないように狙って撮っておられたのか、そもそも人はあんまりいないんですか?

 

 

マイク野上:そもそも人はあんまりいないんですけど。笑。景色を見てもらうのに人間がいたらみんなそれを見ちゃうから、いない方がいいかなと。ワンちゃん散歩させてると、他のワンちゃん見たら吠えるじゃないですか。人間も同じ。やっぱり人間は人間に興味があるらしくて、人が写ってるとそっちを見ちゃう。なので人はアヴォイドしました。

 

「NEW YORK – HOLY CITY」写真集のコメントに細野晴臣さんが書いておられるのは、野上さんの写真は「一歩引いて、ものを見せる撮り方をする」ということをおっしゃっていられますが、その感覚みたいなものはおありだったのですね。

 

マイク野上:僕が若いときに、篠山紀信さんがどこかで「対象を見たら、一歩前へ出て撮るんだ」て言ってた。それは精神的な意味なのか現実に一歩前で撮るのかよくわかんなかったんですけど、とにかく一歩前に出てというのが常套句だったんですよね、その頃大学の写真部に入っていたんですが。アメリカに来てからは、「じゃあ一歩引いたらどうなの」って思うようになって、一歩引いてみると全体が見えるんですよ。

 

 

僕も昨日、作品を展示しながら思ったんですけど、大阪のロードサイドにもラーメン屋の大きな看板があったり、中古車チェーンがあったりするじゃないですか。ひょっとしたら海外の人が見れば、そういう風景に興味を持つんじゃないのかな、と思いまして。当時ワシントンに住んでいたアメリカ人にとっては普通の景色でも、日本から来た野上さんだからこそこのような風景を見つけることができたのではないのかと。

 

 

マイク野上:「AMERICAN」という白黒の超有名な写真集があって、ロバート·フランクという写真家ですが、彼もスイス人なんですよね。外国人の方がアメリカのエッセンスというのが見えるのではないかと。僕も外国人だからよかったのかなと思いますね。

 

 

そういえば、野上さんが展示のBGMを「パリ·テキサス」にしてよってリクエストされましたが、そういえばヴィム·ヴェンダースもドイツ人ですしね。

で、この78年に撮られた「アメリカーナの探求」が、45年経って昨年ようやく写真集としてまとめられたという。これだけの時間が経ってからの出版というのはどういう経緯だったんでしょうか。

 

 

マイク野上:どうでしょう。最初に有名写真雑誌に持っていってリジェクトされたのがトラウマになってたからかな、笑。僕は未来を意識して現在を撮るので、いつも僕の写真には時間が必要なんです。だから、ずっと準備していて、今できて、とてもよかったと思っています。今見ると、とてもわかりやすいですよね。

 

これが80年代に出ていたら凄いことになってたかも、とかも思うんですけど。

 

 

マイク野上:ま、こういうことなんで。笑。

「THE AMERICANS」Robert Frank

そしてこのあと、野上さんはニューヨークに移られる。

 

 

マイク野上:はい、ニューヨークでも最初は35ミリでスナップ撮ったんですけど、73年に8×10の大判カメラを買って。車のローンと同じように10ヶ月払いで、笑。そのカメラで「NEW YORK – HOLY CITY」を撮りました。

 

 

ニューヨークのこの写真集は、ワシントンとは全然違う景色ですね。ニューヨークといえば、摩天楼とか五番街とか、とても煌びやかなイメージなんですが、この写真の景色はほとんど荒廃していますよね。これはブルックリンとかですか?

 

マイク野上:マンハッタンの中にもあったんですよ。ニューヨーク、本当にヤバいところだったんですよ、その後、だんだん良くなって最近またヤバくなってるらしいですけど。

 

このヤバい景色の中で8×10のカメラを据えていたら相当危険だったと思うんですけど。

 

マイク野上:あまり人がいなかったんで大丈夫だったんですけど、ハーレムとかで撮り始めたら、バットを持った男が近づいてきたり。笑。

8×10のカメラって組み立てるのに時間がかかるんですよね。それを超早くできるようにアパートでめちゃくちゃ練習して。笑。現場に着いたら三脚立てて一瞬で撮影できるように練習して撮るみたいな。そんな毎日でした。撮影場所も車でまわってロケハンして、太陽の位置とか影なども予想して綿密に計算してやってましたね。

 

 

そうやって綿密に計算して撮られた写真がこんなに殺伐としているというのが面白くて。それぐらい僕にとっては衝撃的な写真集でした。

「NEW YORK – HOLY CITY」 / 8×10のカメラとマイク野上さん

マイク野上:この写真集の中にヌードがあるのを知ってましたか?

 

 

えー、どこ、本当だ。ヌードだ。これマネキンだと思ってました。これモデルで撮影したのですか?

 

マイク野上:学生さんにお願いして。この作品を最初撮り始めた時にずいぶん地味な写真集になるなと思っていたんですが、すごく小さくヌードとか入れておいて、発見したらほかの写真も細部までよく見てくれるんじゃないかなと。それとエドワード·ウエストンという写真家が、ヨセミテ国立公園を撮った写真で、砂漠の風景にちいさくヌードを入れた写真があったんです。それでこの荒涼としたニューヨークのこの地域は、僕のヨセミテ国立公園的なオマージュでもあります。

 

写真集持っていながらいままで全然気づきませんでした。またこの写真集のタイトルが「HOLY CITY」というのもすごいですね。

 

マイク野上:なんだか爆撃にあった後みたいじゃないですか。こういう風景って。ですからこういうタイトルにしました。

 

「NEW YORK- HOLY CITY」

ニューヨークではどんなお仕事をされていましたか。

 

マイク野上:現像所をやっていました。地下にスタジオを作ってやってました。写真で飯を食うという感じではなくて、写真現像で飯を食ってました。笑。アメリカに移ってからいろんなことを考えていたんですよね。自分は写真家としていくのかということを。

思えば、僕が日本でアシスタントをしていた時は写真をいっぱい撮ってたんですよ。で、写真家になってからは仕事の写真しか撮ってないの。シャッターを沢山押す快感で自分の写真が撮れなくなってしまって。プロになると一日何十回もシャッターを押すじゃないですか。もうそれだけで満足しちゃう感じになるんですよね。

 

もう一つわかったのは、人間というのは美意識は1個しかないんですよ。人の目を通してかっこいいと思うものとは、やっぱり違うんですよね。コマーシャルっていうのは結局みんなが見てかっこいいっていうものを撮るわけじゃないですか。それをやってると自分の美意識がクライアントの美意識になっちゃうんですよ、それは駄目だな。と。シャッター押す快感が何かも全部そこに吸い取られちゃうみたいな。

 

だからフリーターの人が写真撮るじゃないすか。そういうのが絶対いいと思うんですよ。無理に写真家になって作品撮るより、生活するのは別のこととして仕事し、自分の好きな写真を撮る、というのをお勧めします。

 

 

高校の同級生の杉本博司さんは、写真家というよりもう現代美術作家みたいになっておられますよね。ちょうど同じ時期に時期にニューヨークで活動されておられたと思うんですが

 

マイク野上:スタジオに遊びに何回かいきましたよ。結構面白い人なんですけど。でもやっぱり自分と違うから、人は人っていう感じですかね。

 

そしてニューヨークでお仕事をされておられて、2015年に日本にお戻りになる。それはどんな経緯だったんですか?

 

 

マイク野上:妹が「そろそろもう年だし、一緒に暮らさないか」って言ってくれて、で、戻ってきたら5年後死んじゃって。また日本で一人になっちゃったんですけど。

 

日本に戻られたタイミングで、シティポップがブームになり、はっぴいえんどの再燃があり、時代の記録者として野上さんの写真が各方面で評価されるようになって。70年代に撮られた写真が今こんなふうに評価され話題になっていることについてはどういうふうに思われますか?

 

マイク野上:伝説の写真家になったよかったと思ってます。笑。

 

今年は野上さんどんなご予定ですか?

 

マイク野上:8月下旬に写真展があります。2000年頃から2005年ぐらいにニューヨークで8X10カメラで撮った写真を非常に大きくプリントした写真展です。あとは決めてないです。色々、順番に一個一個やっていかないとと思っています。

参加者から質問:この本の中にも「未来から今を撮す」という視点があると書かれているのですが、野上さんの「時間」というものについて教えていただきたいのですが。

 

マイク野上:先ほども言いましたが、細野氏を撮っているときも、10年後にはきっとサラリーマンになっているんじゃないかと思って撮っていたんですが、やっぱりそれって未来から見ている視点じゃないですか。10年、20年後の自分を考えつつ、今これを見たらどういうふうに思うのか。ポートレートを撮るんだったらその中に車とかiPhoneとか年代によって頻繁に変わる物を入れておくとか。それで時代がわかるじゃないですか。なんで写真を撮るかというと、後で見たいから。それが写真じゃないですかね。

 

 

この「アメリカーナの探求」シリーズで僕が好きなのは、この映画館の写真なんですが、窓に小さく「サタデーナイトフィーバー」のジャケットが写っていて。まさに78年の記録ということがわかりますよね。

「アメリカーナの探求」

マイク野上:「SHIBUYA 1999」っていう写真集があって、ギャルの写真なんですけど、一番気を遣ったのは背景で、後ろに「カラオケいくら」とか値段が書いている。そういうのを意識して写真を撮っているんですよね。何十年後に見ると「あー、こんなに安かったの」なんて思ってももらえる。

 

それって写真撮るときにちょっと気づくだけでも全然違うものになるかもしれませんね。

 

マイク野上:はい、そうやって見てください。「なんで写真撮るのか、それは後で見るため」

 

すごいシンプルな名言をいただきましたね。

「SHIBUYA 1999」

参加者から質問:いま写真を撮られる時は何を使っておられますか?デジタルですか?

 

マイク野上:そうですね。カメラは何でも。コンセプトさえ間違ってなければ別にフィルムじゃなくても。フィルムでしか撮れないということではないですね。この写真もフィルムで撮ってるのですが時間が経つとどんどん退色してしまいます。だからできるだけ早くデジタルアーカイブ化しておかないとと思っています。

 

参加者から質問:素敵な人生送られてきて、今、こういう時写真を撮りたいなと思う時はどんな時ですか?

 

マイク野上:そうですねー、思いつかない。笑、写真撮る時は頭の中が空っぽだったり、そうでなかったりしますね。

 

 

参加者から質問:夏休みでアメリカに行かれて写真にはまったっていうことをおっしゃったんですけれども、もしアメリカに行く機会がなかったとしたら、いま自分がどうなってると思われますか?

 

マイク野上:写真はその前から好きだったんですよ。「BLUE」にある都電の写真はアメリカに行く前に撮ったものだし、うちの親父がカメラが好きで、家にカメラがたくさんあったんです。親父はゴルフをやってたんですね。で、フォームを直したいから写真を撮ってくれと言われて、小学生のときにカメラで撮るんですけど、なかなかうまく撮れないんですよ。それがうまく撮れるようになって、それは僕がカメラマンになるための試練だったんだと思ってます。笑、シャッターチャンスの練習だったと。いろんな偶然が重なって今があります。

写真集「BLUE」より

参加者から質問:写真集「BLUE」を見せていただいたんですけど、そこには野上さん自身が何度も写っていたんですが、それはどうしてですか?

 

野上:「BLUE」はコンセプト的に「僕もそこにいたんだ」「こういう仲間といたんだよ」という感じにしたかったので、自分の写真もいっぱい入れたんです。

 

野上さんの写真は誰が撮られたんですか?

 

野上:誰かその時いた人。笑。

「BLUE」マイク野上

今日はありがとうございました。そんな野上さんの写真、後でじっくり見てください。

展示されてる作品は全て販売しています。全て10枚エディションとなっておりまして、それぞれエディション1です。1枚目のお値段が10万円です。全てにサインとエディションを付けてお渡ししますので、これはと思う作品はどうかお早めに。エディション2からは価格が上がります。写真のエディションってこういう価格設定されますよね。エディションが上がると値段も上がるという。

 

 

野上:日本の写真の値段がね、あんまり安すぎるから困ったなあと思って。笑。だから最初の1枚だけね、めちゃめちゃ安くしてあります。このサイズだとニューヨークで買えば3000ドルぐらいするんですよね。だから毎エディションごとに値段を上げていこうと。笑。そういうシステムになっております。

 

今買っとかないと!笑、もちろん写真集には全部載ってますけど、自分だけの1枚っていうのを選んでください。

「アメリカーナの探求」展示風景

参加者から質問:このフィルムの種類を教えてほしいのですが。先ほど話になかったので。

 

野上:ちょっと特殊で「コダクローム25」といって感度がとても低いのですが画質がとても美しいフィルムです。シャッタースピードが遅く、カメラをしっかり構えないと上手く撮れない。曇りだと三脚がいる感じでしたね。エグルストンが使っていたのが64。僕は25。笑、その頃の写真家は手ブレしないで上手く撮れたんです。

 

そんな手間をかけて写真撮る人はもういないってことなんでしょうかね。

 

野上:そうですね。

 

フィルムの情報もいただきました。さらにぐっと写真の価値が上がったような気がします。笑。ぜひじっくりご覧ください。今日はありがとうございました。(拍手)

Kodachrome 25

トークを終えて

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